これから我が家の「薬きょう」がどの様にして入ってきたかのマジルーツを探ります。
とある日、ふとした事から我が家で受け継がれていた太平洋戦争中の「薬きょう」の歴史を調べたくなり、色んな観点から調査してみようと思い立った事がキッカケで調べてました!
まずはじめ、祖母から聞いていた話から抽出していきますので、時系列で書いてみます。
実寸(100mm)で弾頭・中身(火薬)はありません。
私が小学生(昭和50年ごろ?)のころ、祖母が戦時中の話をしてくれました。
その中で当時の町内へアメリカの戦闘機が飛来し、兵隊さんが高射砲で1機のP-38を攻撃し町内に墜落したと言う。
その時、旦那(祖父)が墜落した戦闘機を見に行って壊れた機体から実弾を持ち帰ってきたと言っていました。
実弾なので当時の祖父たちは(大人数)持ち帰った機体の一部や実弾(火薬・点火薬)を抜いて保管していたが、軍の命令で持ち帰った部品・弾丸などは決められた場所に廃棄するように通達され、近所の池に捨てに行ったが、うちの祖父はコッソリ持ち帰ったのがこの「薬きゅう」だと聞いていた。
これ以上の情報は何も判らない!まま数十年経過・・・
まとめてみると
これだけの情報しかありません。
内部は青さびが大量に付着しています。
薬きょうの長さ(100mm)、先端寸法は(13mm)で弾丸直径は(12.7)になります。
薬きょうのリム部に文字(ヘッドスタンプ)に「DM・43」と刻印されています。
雷管には撃針痕が無いので未使用だった(弾)と思いますね。
祖父が内部の(火薬・雷管薬)を水に浸し、つんつんしながら抜いたモノと伝えられています。
まとめてみると
以上の、祖母の話と実弾の刻印情報から調査していきます。
今の時代って大変便利なもので、情報キーワードを駆使しながらGoogle先生でググって行けば少しづつですが、情報が段々解読できるようになります。
検索結果を見ると。
ついに判明したおやじの家に伝わる「13mm機銃の薬莢」は米国の双発爆撃機(B-25)の機関銃の弾薬と判明しましたが、これには大変驚いた事実があります。 ただ、戦闘機が空から機銃攻撃して落ちてきた薬きょうだったら、日本中をどこを探しても沢山あると思いますが、この13mmDM43薬きょうには悲しい歴史が伝えられていたのです。
1945年8月7日当時の熊本県下益城郡松橋町(現:宇城市松橋町)へB-25爆撃機による空襲が展開された。
松橋駅周辺を空襲で多くの民間人の犠牲者が出たと言う。
その後、八代方面へ向かったB-25爆撃機のエンジントラブルで経由の氷川河川敷へ不時着すると、近所の農民らにより5名の米搭乗員が捕虜となり、町中をみせしめ引き回しさされたとされる。
その後、軍に引き渡された5名の搭乗員は福岡県の山中で、軍法会議にかける事もされず全員処刑されたと記されています。
そんな、数日後には終戦だったのに5名は何も知らずに死んでいったのか・・・
戦時中だったとしても無条件で処刑する当時の軍人さん達がヤバかった。
情報出典:https://www.yomiuri.co.jp/
悲惨な太平洋戦争の一つの出来事で我が家(おやじ家)に伝えられた、たった一つの(薬きょう)ルーツがココだったなんて、戦後80年目にして知った出来事で驚愕しました。
祖父が廃棄していなかったので、令和の現在までキレイな状態のまま残っていた(薬きょう)。
恐らく米軍搭乗員が機関銃に装填していたこの(薬きょう)は、今後いつまでも語り継がれたく思い、このブログの1記事にしてみました。
ご視聴ありがとうございます。
また、空襲で亡くなられた人々、B-25爆撃機の搭乗員への冥福をお祈りいたします。
とある日、ふとした事から我が家で受け継がれていた太平洋戦争中の「薬きょう」の歴史を調べたくなり、色んな観点から調査してみようと思い立った事がキッカケで調べてました!
まずはじめ、祖母から聞いていた話から抽出していきますので、時系列で書いてみます。
薬きょうの現物を見てみます。
実寸(100mm)で弾頭・中身(火薬)はありません。
祖母から伝えられたこと。
私が小学生(昭和50年ごろ?)のころ、祖母が戦時中の話をしてくれました。
その中で当時の町内へアメリカの戦闘機が飛来し、兵隊さんが高射砲で1機のP-38を攻撃し町内に墜落したと言う。
その時、旦那(祖父)が墜落した戦闘機を見に行って壊れた機体から実弾を持ち帰ってきたと言っていました。
実弾なので当時の祖父たちは(大人数)持ち帰った機体の一部や実弾(火薬・点火薬)を抜いて保管していたが、軍の命令で持ち帰った部品・弾丸などは決められた場所に廃棄するように通達され、近所の池に捨てに行ったが、うちの祖父はコッソリ持ち帰ったのがこの「薬きゅう」だと聞いていた。
これ以上の情報は何も判らない!まま数十年経過・・・
まとめてみると
- 戦闘機はP-38で2基のエンジンが付いていた
- 近くの川に墜落した戦闘機
- 近くの池に捨てた
- 戦時中の後半
これだけの情報しかありません。
薬きょうの寸法・製造年を調べる
内部は青さびが大量に付着しています。
薬きょうの長さ(100mm)、先端寸法は(13mm)で弾丸直径は(12.7)になります。
薬きょうのリム部に文字(ヘッドスタンプ)に「DM・43」と刻印されています。
雷管には撃針痕が無いので未使用だった(弾)と思いますね。
祖父が内部の(火薬・雷管薬)を水に浸し、つんつんしながら抜いたモノと伝えられています。
まとめてみると
- ヘッドスタンプ(DM)(43)刻印。
- 12.7mm機関銃
以上の、祖母の話と実弾の刻印情報から調査していきます。
ネット検索で調査しまくる。
今の時代って大変便利なもので、情報キーワードを駆使しながらGoogle先生でググって行けば少しづつですが、情報が段々解読できるようになります。
検索結果を見ると。
- DM43:どこかの国の工場で1943年に作られた弾丸。
- 故郷へ墜落した戦闘機:熊本県鏡町近郊の氷川河口付近に米軍機が不時着している。
- P-38戦闘機とは?:P-38ライトニング(双発機)じゃなく、B-25爆撃機だった。
P-38ライトニング 引用:wikipedia/P-38
B-25爆撃機 引用:wikipedia/B-25
- 近所の池とは?:鏡町にある鏡ヶ池という事。
鏡ヶ池:毎年4月7日に鮒取り神事が行われる伝統ある池です。2014年の画像
ついに判明した(薬きょう)の歴史。
ついに判明したおやじの家に伝わる「13mm機銃の薬莢」は米国の双発爆撃機(B-25)の機関銃の弾薬と判明しましたが、これには大変驚いた事実があります。 ただ、戦闘機が空から機銃攻撃して落ちてきた薬きょうだったら、日本中をどこを探しても沢山あると思いますが、この13mmDM43薬きょうには悲しい歴史が伝えられていたのです。
1945年8月7日当時の熊本県下益城郡松橋町(現:宇城市松橋町)へB-25爆撃機による空襲が展開された。
松橋駅周辺を空襲で多くの民間人の犠牲者が出たと言う。
その後、八代方面へ向かったB-25爆撃機のエンジントラブルで経由の氷川河川敷へ不時着すると、近所の農民らにより5名の米搭乗員が捕虜となり、町中をみせしめ引き回しさされたとされる。
その後、軍に引き渡された5名の搭乗員は福岡県の山中で、軍法会議にかける事もされず全員処刑されたと記されています。
そんな、数日後には終戦だったのに5名は何も知らずに死んでいったのか・・・
戦時中だったとしても無条件で処刑する当時の軍人さん達がヤバかった。
情報出典:https://www.yomiuri.co.jp/
松橋町は、1945年8月7日にアメリカ軍のB-25爆撃機による空襲を受けました。この空襲では、駅舎や商店街などが被害を受け、多数の死傷者が出たとされています。また、同時期に墜落した米軍機の残骸が発見され、機関銃弾薬莢DM43が見つかったという報告もあります。以上の情報から、松橋町での空襲による被害や米軍機の残骸について述べました。
まとめ
悲惨な太平洋戦争の一つの出来事で我が家(おやじ家)に伝えられた、たった一つの(薬きょう)ルーツがココだったなんて、戦後80年目にして知った出来事で驚愕しました。
祖父が廃棄していなかったので、令和の現在までキレイな状態のまま残っていた(薬きょう)。
恐らく米軍搭乗員が機関銃に装填していたこの(薬きょう)は、今後いつまでも語り継がれたく思い、このブログの1記事にしてみました。
ご視聴ありがとうございます。
また、空襲で亡くなられた人々、B-25爆撃機の搭乗員への冥福をお祈りいたします。